幕末ごろの郡山村の地図です。宿場として現在の旧国道4号線・現在の県道355号線(奥州街道)沿いに発展した街です。今も所々に昔の名残がありますので、この古地図と照らし合わせて街を散策してみては・・・
享保時代(1720年代)になると、郡山村も宿場町として人口が1400人ほどになり、深刻な水不足に悩まされます。元々水に恵まれない所であり、当時かんがい用の溜池だった皿沼(現在の商工会議所)から水を引くようになりました。また、明和時代(1760年代)になると、現在の清水台・細沼・赤木等の水源地から山水道として水を引くようになりました。当商店街に山水道の復元模型があります。
現在の中町10番地あたりを境にして郡山宿は南を上町・北を下町として区分していました。上町の町名主・今泉家が本陣でした。場所は現在の和久屋旅館のあたりになります。北の木戸門は、現在の東邦銀行中町支店の先のクランク。南の木戸門は、横塚線との交差点手前のクランクになります。
明治5年ごろの郡山です。幕末時よりも人口が増えている様子がうかがえます。このころで、約7000人ほどの人口があったそうです。
明治時代の中町の貴重な写真です。